移住の歴史の概要
(1)戦前
ブラジルへの移住は、1908年(明治41年)6月18日、笠戸丸で781人が移住したのが最初です。これは1907年、水野皇国植民会社社長とボテーリョ・サンパウロ州農務長官の間で調印された契約に基づくものです。初期移住者はコーヒー園の雇用農としてブラジル南東部(主としてサンパウロ州)に入植した者が多く、多くの苦節がありました。1916年(大正4年)頃には、雇用農から独立した者が自発的に移住地を創設するようになり(平野植民地等)、また1928年(昭和3年)にはブラジル拓殖組合が設立され、自営農移住者のための集団植民地(グァタパラ移住地等)が創設されました。
一方、1928年に南米拓殖(株)が設立され、翌年、アマゾン移住(トメアス移住地)も開始されました。しかし、1934年(昭和9年)、ブラジル政府は外国人移民を制限する法律を制定した結果、日本人移住者数は1935年(昭和10年)以降急減しました。
結局、戦前の移住最盛期は1933年~34年(昭和8年~9年)で、年間約2万人が移住し、戦前の移住者総数(1941年(昭和16年)まで)は約19万人に達しました。
(2)戦後
戦後移住は、1952年(昭和27年)にアマゾン移住をもって再開し、1960年(昭和35年)には日伯両国政府間で移住協定が締結されました。戦後移住は、国際協力事業団(JICA)(注)による入植地の設定、移住者の送出、援護を主軸とする移住事業が展開されました。戦後移住の最盛期は1954年~61年(昭和29年~36年)で、年間4,000~7,000人が移住しましたが、総数(1945年~93年)は53,657人です。
最近の対伯移住は、我が国の生活水準の向上、80年代以降のブラジル経済の低迷、ブラジル政府の移住者選考の厳格化等の事情もあって、往年に比べ大きく減少しました。JICAが送出業務を取りやめた1993年(平成5年)で10名となっています。
(注)JICAは、日本海外協会連合会と海外移住振興会社が63年に合併してできた海外移住事業団と他の政府機関を74年に一本化した機関。
(3)現在
サンパウロの人文科学研究所の日系人口サンプル調査(88年)によれば、移住者を含む日系人総数は約123万人で、その居住地は全伯的に広がっていますが、なかでもサンパウロ州(全体の7割)、パラナ州(1割強)に集中しております。また世代別の混血状況では、2世が6%、3世が42%、4世が63%となっており、混血傾向が益々強まっています。
(4)その他
ブラジルの日系社会は海外最大のもので、日系人は連邦下院議員、州議会議員、市長等をはじめ政治、経済、文化芸術等の多様な分野で活躍しています。1998年には移住90周年記念式典が開催され、当時の小渕外相が出席されました。
(出典:外務省領事移住部領事移住政策課資料、ブラジル日本移民80年史)
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